2018年2月子どもの人権委員会『子どものスピーチ』原文

2019年2月の国連勧告を引き出した真の貢献者は、2018年に勇気をもってスピーチした子どもたち。
これはそのスピーチ前の原文の1つです。
(大人の手直しがない状態での子どもが書いた原文を載せました。尚、国連に行く前に直接原文を頂き、自由に使って良いとの許可を頂いております。)

子どもは親の所有物か
私の両親は、私が5歳の時に離婚しました。
その時母親は、家族で暮らしていた私の家から母親の実家に私を連れ去りました。それは、父親はもちろん、私にも何も知らされずに実行されました。私はすぐに自分の生まれた家に…、父の元に戻れるものだと思っていましたが、いつまでたっても私は家に帰れませんでした。父に会えない私は、父が生きているのか心配になるとともに、私は家に二度と帰れないのではないかと不安になりました。そして私は夜驚症に罹り、円形脱毛症となり、ボーッとすることが多くなりました。
これは、今普通に考えると誘拐(拉致)ではないでしょうか?
私は母親に誘拐されたのです。
その間、父は私に会う(解放する)ための努力をしていました。しかし、母親はそれを妨げました。
こうして、両親は裁判所を利用しました。その結果、裁判所はなんら親権喪失事由のない父より親権を剥奪し、私を誘拐(拉致)した母親に親権を与えました。
私を奪取し実効支配した母親の行為を裁判所は追認したのです。
さらに裁判所は、私が父に会う機会を制限しました。
私と会うために面会交流を申し立てた父に対して、母親の認める範囲内でしか面会交流が出来ないような条件を認めたのです。つまり、実効支配した者に、その裁量の範囲内で私の面会交流を取り決める権利を認めたのです。
結果、私は自由に父と交流する機会を母親により奪われることになったのです。裁判所は、私の父の意思に反して私が父から分離されることを容認し、私が切望しているにも関わらず、定期的に父と人的な関係及び直接の接触を維持する権利を奪いました。
こうして、私は父に自由に会えない、不安な年月を送ることになるのです。
その間、酒に酔った母親の父(祖父)からは、ライターの火を持って追い回される等の虐待紛いの行為を受けました。不安な日々により安定性を欠いた私を、母親は向精神薬を投与することにより抑えました。
そして、次第に私は父に会いたいとは思わなくなりました。会えない父に会いたいと思い続けることが苦しく、面倒になったからです。父に会いたい様子を見せれば、母親や母親の父(祖父)が不機嫌になる。しかし、父の悪口を言えば、母親や母親の父(祖父)は喜びました。そして、父を悪者にする理由は、母親や母親の父(祖父)が豊富に提供してくれたのです。だから私は、次第に私は父に会いたくない風を装うようになりました。こうして、私は色彩のない幼少期を過ごしました。
しかし、この間も、父は何度も私のために、私との交流の機会の確実な確保と拡充を求めて裁判所に申立てを続けましたが、裁判所はそれを認めなかったようです。
それでも、何ヶ月かに1度は、母親は私が父に会うことを許しました。たまに会う父はいつも優しかった。幼いころに感じたそのままの父でした。私の幼少期に色彩をもたらした数少ない時間がこのささやかなひとときでした。このひとときは、私に、未来とか、夢とかというものを抱かせました。私はそんな父と別れる時はいつも泣いていた。次はいつ会えるともわからなかったから。
こうして私は、少しずつですが、父との絆を紡いでいきました。そして、みんながいつも普通に一緒に居られる父と暮らせないのはなぜなのかを考え続けました。そして次第にその理由に気づいていったのです。それは単に、母親が私を父に会わせたくなかったからなのではないかと。それは私には関係のないこと。父は私には何も悪いことをしていない。私には父との交流を制限されなければならない理由は何もない。私にはわたしを愛してくれる父がいるのだと。そして、日々私に寂しい思いをさせ続けた母親を疎ましく感じ始め、父との生活に思いを馳せるようになりました。そんな私は10歳になって行動力を身につけた私は、父の元(私の家)に戻る決意をしました。その準備を整えた私は、11歳の誕生日を迎え、母親の元から逃げ出し、父の元(私の家)に帰宅しました。
私が5歳の時、裁判所は母親による実効支配を容認し、私から父との交流の機会を奪いました。だから、私が父と暮らすためには、実力行使しかなかったのです。
こうして、私は長年待ち望んだ父との暮らしを手にしました。私の生活に一気に色彩が蘇りました。
しかし、親権がないという父の身分を理由に、私は様々な差別を受け、権利を制限されることになりました。
・裁判所
私が父と住み始めると、父は裁判所に親権者変更の申し立てをしました。次いで、母親は私を引き渡すよう申し立てをしました。すると裁判所は、父の親権者変更を後回しにして、母親の引き渡しの審判を先に進めたのです。
その審判で、父は、私に影響を及ぼすこの審判の手続きにおいて、私が自由に自己の意見を表明する機会を設定することを訴えました。しかし、裁判所が私の意見を表明する機会を認めることはありませんでした。結局、父の申し立てた親権者変更は審理されることのないまま、私の意見を表明する機会もなく、母親の引き渡し請求が容認されました。
父が私を連れ去ったわけでもないのに、父に「私を引き渡せ」なんておかしいと思いました。私が自ら父との暮らしを求め、自分の家に戻ってきたのです。それなのに私の意見を表明する機会すら持たずに、私を「引き渡せ」とは、これでは私はまるで親の所有物扱いです。
もしも、父が私を実力行使で連れ去ったなら、「まずは元に戻してから…」というのもわかります。そうではなくて、私は自分の意志で誘拐(拉致)される前の自宅に戻ったに過ぎません。
一方、最初に母が私を実力行使で連れ去ったことについて、裁判所はそれを容認した。「まずは元に戻してから…」というならばこの時点で実力行使を認めるべきではなかったのではないか?当初の裁判所の決定をあたかも正当化するかのように、裁判所は私の引渡命令を連れ去ったわけでもない父に突きつけたのです。
こうして私は、母親と裁判所によって絶望の淵に突き落とされました。
それでも私は、母親の元へなんか戻りませんでした。父も、嫌がる私を無理に母親に引き渡すことはしませんでした。私の、生家で暮らしたいという誰もが当たり前に認められる権利を得るためには、実力行使しかありませんでした。
すると今度は、母親の弁護士から、私を強制的に連行するとの文書が届きました。またしても私の意思は無視です。その時の恐怖は凄まじいものでした。今度母親に連れ戻されたら、私は二度と今の幸せな生活ができなくなることは明らかでしたから。
・行政
私が父の元(私の家)に帰宅すると、父はまずは私が学校に通う手続きをしました。
しかし、父に親権がないことを理由にそれは認められませんでした。だから、しばらくの間は父が仕事を休み、私の勉強を見ました。その後、学校で授業を受けることは認められましたが、入学は認められないままでした。「体験入学」として扱われました。そのため、みんながもらう教科書はもらえませんでした。新品の予備の教科書があったのにです。私は先生から教科書を借りて授業を受けることになりました。
授業を受け、テストも受けましたが、成績表はもらえませんでした。「体験入学」だから他の子と同じにはしないとのことでした。教科書ももらえない、成績表ももらえないでは不公平だというと、「親権のある母親の元に行けば学校にも入れるし、教科書も成績表ももらえる。教科書や成績表が欲しければ母親の元に戻ればいい」と行政は答えました。私にとっては、「親権のない父と暮らすことを選んだ罰として、他の子供と同じように学校に入学する権利も、教科書をもらう権利も、成績表をもらう権利も剥奪する」と言われたに等しいものです。
それは、親権のない父と暮らすことを選んだ私には、ひとしくその能力に応じた教育の機会は保証されず、差別もするということです。
 また、親権者の母親が拒んでいるとの理由で住民登録もしてもらえません。子供がいる家庭に支給される手当ももらえません。それを拒んだ行政職員をはじめ、誰もが私がここに居ることを知っているのに。
こんな状況が、父親に親権が認められるまでの1年以上続きました。
この間、私は何も変わっていないのに、父親が親権者になった途端にすべてが変わりました。学校にも入学でき、教科書も支給され、成績表ももらえました。住民登録もされ、手当てももらえるようになった。
私は、親権がないという父親の身分によってこのような差別をされるとは夢にも思いませんでした。
普段接する周りの人たちは誰も、父親が親権者か否かに関係なく、私を平等に扱ってくれました。しかし、司法と行政、そして母親は、私の一人の人間としての権利をことごとく侵害し、差別しました。私の生活に影響を与える重大な事項に対して、何一つ私に意見の表明の機会を与えず、問答無用で物事を決めていったのです。そんな環境から自由を勝ち取る方法が実力行使しかないならば、裁判所にはその存在価値がないと言わざるを得ません。親の身分にかかわらず、子供の権利がしっかりと守られる社会となることを熱望します。今の司法と行政には全く信頼ができません。

子どもの権利条約9条を守る会

親に会えない子ども達、子どもに会えない親達のために。 9.22浅草ウォーキングフェス開催!